ヌーベル・キュイジーヌとは?

ヌーベル・キュイジーヌ」は、ポワンの弟子たちによって作られましたが、1960年代からこれがフランス料理の世界を大きく席巻しました。そして、この時代はヨーロッパ修行第一世代とも言われていて、日本のコックたちが続々と海外修行に行き始めた頃でもあります。
 
トロワグロ兄弟の店で修業していたのが、「アビシウス」「パ・マル」の高橋徳男で、クロード・ペローの「ヴィヴァロワ」で修業していたのが斉須政雄や石鍋裕などです。こうしたフランスのお店で数年修行した後、彼らは日本に戻って活躍します。それが1970年代で、彼らが新たなフランス料理を持ちこみ、ポワンの流れを汲むフランス料理が日本にも根付きました。
 
さらに大阪の辻調理師専門学校が1972年にポール・ボキューズを日本に呼び、講演会を行いました。最新の調理法などについての講演であったのですが、ホテルオークラ総料理長もその講演には出席していたとのことです。フランス料理は、日本に実に大きな影響を与えましたが、同時にボキューズと日本の出会いは、フランスにも大きな影響を与えていました。
 

フランス料理。素材をいかした、見た目にも美しい料理。

フランス語で〈新しい料理〉の意。1970年代に提唱されたフランス料理の新しい傾向。従来のフランス料理よりも調理時間を短縮し,ソースにも生クリームやバターをあまり使わず,あっさりと軽いものにするなどして,料理界に新風を吹き込んだ。

オーギュスト・エスコフィエの著書「料理の手引」がフランス料理のスタンダーとして確立されて以降、ホテルやレストランの料理長は、この技術体系をいかに忠実に守って調理するか、ということが求められた時代がある。

このスタンダードが出来た事で、世界中の料理人が忠実に調理に向かう事でフランス料理が名実共に世界に大きく広がった。

この事は、実際に料理を作る側からみると大きな壁となって目の前に立ちふさがったともいえる。料理人たちにとっては自由がないと感じられるようになり、この壁を打ち破りたいと思う料理人が出はじめる。

70年代の初めの「ニューズウィーク」の表紙に登場した、腕組みをしたフランス人の料理人こそポール・ボキューズ。そこには大きな文字で「エスコフィエ セ フィニ」。エスコフィエの時代は終わったと宣言したのだ。

戦争が終わり、経済が安定して、そうした動きが各地のレストランから起こり始める。決まり切った料理を毎日作のではなく、まず市場で自分の気に入った食材を選び、そこから料理を考える。大きな変革であった。

この変革の動きを当時は「ヌーベル・キュイジーヌ」と呼んでいた。新しい料理という意味だが、同時にこの言葉は料理の一つの主張でもあった。 
旧い体制への変革の意思を表す象徴的名標語でもあったわけだ。

一方で、ジャーナリストがこの標語を一つの運動として象徴として使った事だろう。アンリ・ゴーとクリスチャン・ミヨという二人のジャーナリストがその中心だった。食べる側のニーズや共感を取り込みつつ行われたという事に、大きな特徴があったといえる。

二人のジャーナリストの名前から「ゴー・ミヨ」と名付けられた月刊誌と、年に1回発行されるガイドブックにおいて精力的にヌーベル・キュイジーヌの運動を推し進めていった。

ちなみにゴーとミヨが考えていたヌーベル・キュイジーヌの定義は次のようなものだった。

①いたずらに複雑にしない 
②加熱時間を短縮する 
③市場の料理する 
④料理の品数を減らす 
マリナードやフザンダージュ(ギリギリまで肉を熟成させる)事をやめる 
⑥濃くて重いソースを作らない 
⑦郷土料理を見直す 
⑧新しい調理技法を取り入れる 
⑨ダイエットなど身体に良い料理を研究する 
⑩料理に創造性を追求する

これらは、エスコフィエが集大成した、高級フランス料理(オート・キュイジーヌと呼ばれる)の部分的な否定であり、時代が要求しはじめた「身体に良く軽い」料理の追求だった。

スタンダードを持つ事によって世界の料理として確立されたフランス料理は、そのスタンダードがあまりにも良く出来た技術体系であったが故に、そこから抜け出そうとしてヌーベル・キュイジーヌという大きな料理の改革運動を押し進めたわけだが、この変革運動は大いに評価すべきことであり、それなくして現代のフランス料理は語れない。